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松原八幡神社へ行きました!

4月2日、松原八幡神社へ行きました。
松原八幡神社へ行った目的は「黒田官兵衛ゆかりの地めぐり」のためです。

松原八幡神社は、山陽電鉄・白浜の宮駅下車すぐのところにあります。
松原八幡神社といえば毎年10月に行われる「灘のけんか祭り」が有名です。
神社の前には立派な常設の見物席があるのが驚きです。
それだけ「灘のけんか祭り」は皆が楽しみする人気の祭りなんですね~

松原八幡神社 常設の見物席

松原八幡神社の前の「灘のけんかまつり」の常設の見物席です。

■松原八幡神社
〒672-8023
兵庫県姫路市白浜町甲399番地
Tel:079-245-0413
ご祭神:品陀和気命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、比咩大神(比咩三神)
創建:(伝)天平宝字7年(763年)

■灘のけんか祭り
執行日:10月14日(宵宮)、15日(本宮)

松原八幡神社 大鳥居

大きくて立派な松原八幡神社の大鳥居です。

松原八幡神社 楼門

延宝7年(1679年)建立の松原八幡神社の楼門

松原八幡神社 社殿

松原八幡神社 社殿

姫路の保存樹30 イチョウ

松原八幡神社の社殿横の イチョウの巨木です。
幹周りは3m50cmぐらい?

松原八幡神社 本殿

松原八幡神社の拝殿の後ろにあるのは本殿?

松原八幡神社 絵馬殿

松原八幡神社 絵馬殿

松原八幡神社の詳細について境内の説明板には次のように書かれています。
天平宝字七年(763)豊前宇佐八幡宮から分霊を勧請して創建といい、妻鹿の漁人久津里の網に「八幡」と書かれた一尺ばかりの霊木を海中から拾い上げたという。
息長足比売命・品陀和気命・比咩大神の三神を祀り旧県社。
平安時代に石清水八幡宮領松原壮の総鎮守となり、鎌倉時代には八幡宮大菩薩垂迹の地として崇敬を集め、一遍上人の参詣も知られる。
中略
明治に至って姫路藩好古堂教授だった亀山雲平が宮司となり、私塾久敬舎ついで観海講堂を設立して住人の教育にあたり、播磨一円から門人が集まったという。

松原八幡神社 説明板

松原八幡神社 説明板

黒田官兵衛とのゆかりについてです。
絵馬殿の説明板には次のように書かれています。
天正の始め姫路の羽柴秀吉と三木の別所長治の合戦の際、約三千人の勢力を持つ当神社は双方より援軍を依頼されましたが、旧来の縁で三木に味方せんとする者、また姫路に味方せんとする者半交し、衆議は幾度なされても決せず、ついにある者は姫路に走り、ある者は三木に援じたとつたえられています。
三木側はこの態度に怒り、当神社に火を放ち七堂伽藍四十六坊ことごとく灰塵としてしまいました。
秀吉は天下平定の後、その際の態度を怒り、当社を城南の芝原という地に移すように命じました。その際に松原は由緒ある地として秀吉に当社存続を懇願したのは黒田孝高と言われており、古来、千石千貫といわれた講田・社領は六十石に減じられてしまいましたが、神社はなんとか存続したのであります。
その後、天正十二年(1584)松原八幡宮社僧霊山坊快祐が八正寺六坊を含め社領を再建しました。
司馬遼太郎の「播磨灘物語」の小説に登場する秀吉の軍師黒田官兵衛孝高は、中世播磨の豪族赤松円心の崇敬した播磨の古社である広峰神社と松原八幡宮に敬神の念厚く、秀吉に特に懇願して六十石を残し、当社をこの地に存続せしめたのであり、当神社にとっては大変な恩人であります。
天正十二年松原八幡宮が復興の際、黒田官兵衛が拝殿を寄進したと伝えられています。
以下 省略

松原八幡神社 絵馬殿の説明板

松原八幡神社 絵馬殿の説明板

松原八幡神社の境内にはずいぶんと立派な石碑があります。
説明板によれば「節宇亀山先生遺跡之碑」とあります。
wikipedia「亀山雲平」には次のように書かれています。
亀山 雲平(かめやま うんぺい、1822年2月11日(文政5年1月20日) – 1899年(明治32年)5月6日)は幕末から明治にかけ、姫路藩士、儒学者、神官、また教育者として活動した人物。名は初め恭吉、のち式毅、由之、敬佐、源五右衛門、美和、雲平を名乗る。号は曳庵、節宇。昌平黌に学び大目付として幕末期の藩政に携わるとともに、明治以後は姫路市灘に開いた「観海講堂」で後進の指導に尽くし「播磨聖人」と呼ばれた。

節宇亀山先生遺跡之碑

節宇亀山先生遺跡之碑

また、松原八幡神社の横には神宮寺であった八正寺があります。

八正寺

八正寺

 

■松原八幡神社 灘のけんか祭り YOUTUBE動画

■松原八幡神社 地図


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